幸弥の言の葉部屋

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思ったことを気の向くまま指先が趣くままに綴った駄文集

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父のゴール

今回は、晩年の父のことを書こうと思う。


認知症の異常行動】

私の父は還暦を過ぎた頃から認知症の症状が現れた。

認知症になった父の行動は想定外で、母と私は父に振り回されぱなしだった。
(詳細を書くのは憚れるので、主立ったものを箇条書きにします)

・自分の体力を過信し、散歩で遠出をして途中で動けなくなり警察に保護される
・家族1日分のご飯やおかずをツマミ食いで全て食べてしまう
・固形洗剤や乾燥剤を口に入れる
・外で拾ってきた物や流し台の排水口に溜まった物を食べる
・戸外で所構わず放尿したり痰を吐く
・トイレではなく洗面台で排尿する
・排便時に利用していない介護施設のトイレを勝手に使用
・自宅のトイレで排便した場合は便器から便を拾って窓から外へ投げる

突発性難聴を患っており寝込むことが多い母と、フルタイムで働いている私には、四六時中父に付きっきりでいることに限界を感じ、介護施設のデイサービスやショートステイを利用することにした。

(収入面で考えると、介護の為に仕事を休むという選択肢はなかった)

この時、父は65歳。出口の見えない介護のスタートだった。


【不測の事態】

父も歳を重ねる毎に体力が衰え、次第に歩き回る動き回ることも減っていった。その代わりに下の世話が増えていった。

そんなある日、父はショートステイから帰宅途中に意識を失い救急車で病院へ運ばれた。

土気色になった父の顔を見た医師は「詳しい検査をしないと分からないが、脳梗塞の再発の可能性があるので回復は困難だと思われる、もしもの覚悟はしておくように」と所見を述べた。

この時、父は73歳。

――ああ‥‥もうダメなのか‥‥
グッと腹に力を入れて診断結果が出るのを待った。

一通りの検査の結果、脳梗塞の後遺症による高齢者てんかんであり、抗てんかん薬の投与で回復するが再発の可能性は高いとのことだった。

――良かった‥‥まだ父は生きてる‥‥
緊張が解けて身体中から力が抜けたような気がした。


【祟り目に弱り目】

父はリハビリを受けながら約1ヶ月入院していたが、以前から抱えていた腹部動脈瘤が肥大化し、何時何時に破裂するか分からないギリギリの段階で、破裂したら最期、死に至るという状態にまで進行していることが判明した。

手術の予約をしたのだが2ヶ月後ということだったので、病院に留まるわけにもいかず半ば強制的に退院させられた。

てんかんの後遺症なのか入院生活のせいなのか、父は自力で歩くことが出来ないほど筋力が落ち、嚥下機能も低下してむせるようになっていた。父は寝たきりになり食事はミキサー食という生活を余儀なくされた。

腹部動脈瘤を抱えているという理由で、何処の施設からも受け入れを拒否され、やむなく自宅で介護をすることになった。

(偶に、動き回られるよりも寝たきりになってくれた方が、介護するのは楽だという話を聞きますが、実際は、そんな都合よくはありません。植物状態は別として当人の意識はありますから、寝たきりの人の介護は生半可な気持ちでは出来ないものです)

認知症が悪化していた父は右手を自由に使えたので、深夜に大音量でテレビを付け、しょっちゅうオムツに触り位置をずらし、毎晩2〜3回はシーツやパジャマを尿で濡らした。

真冬だったので放置して風邪を引かせるわけにもいかず、母と2人がかりで、オムツとシーツの交換、着替えを母と済ませる夜が続いた。

寝ているところを起こされて、眠い目を擦りながら父の着替えを手伝っていた私は『会社の仕事も大変なのに勘弁してくれー!ゆっくり眠らせてよ!』と、心の中で叫んでいた。

本当に必要な時にサービスを受けられないとは、なんて理不尽な介護制度だと腹が立った。


【施設入所】

腹部動脈瘤の手術を受けた父は、病院の地域連携連携室の紹介で保健施設に入所することが出来た。

着替え等は業者に頼まず家に持ち帰って洗濯していた為、1日置きに母か私が顔を出していた。2人揃って行くと毎回「迎えにきたんか?何時帰れる?」と聞かれた。

(これを言われるのは辛かったです。負担なく世話が出来るのなら、家に連れて帰りたかったですよ)

母だけの時には「お前は方向音痴だから迷わんように気をつけろ。ちゃんと帰り道分かっとるか?」と言ってたそうで、ボケていても母を心配する父に夫婦の絆というものを感じた。

一方、私だけの時は、幻覚が見えていたようで「窓から見える山が動いた」とか「車が空を飛んでるのを見た」と言ったりして私を笑わせた。


【襲い続ける病魔】

入所してから2週間が経った頃、父は誤嚥性肺炎に罹って病院に送還され、医師に胃瘻を薦められた。

――今では、食事のみが生き甲斐になっていた父から食べる行為を奪って良いものか?

随分迷ったが、胃瘻にしても状態が良くなれば口から食べることが出来ると説明され踏み切った。

胃瘻の手術を済ませ施設に戻ろうとしていた矢先、高熱を出し重篤な肺炎になってしまった。
(この時は医師も母と私も半ば諦めていました)

しかし、父は驚異的な回復を見せ、医師から「凄い!生き返った!」と言われた。
(父は強靭な魂を持っていたのでしょうかね?)

症状が安定して無事に施設に戻り、やれやれと思った3ヶ月後、施設から移転先を探すように催促された。
父が入所していたのは【老人保健施設(老健)】だったので滞在期限が設けられていたのだった。

次の受け入れ先を探さなければならず、市内の【特別養護老人ホーム(特養)】に申し込んだが、何処も順番待ち状態だった。

(順番待ちというのは、何方かの死を待つということなので、複雑で嫌な気分ですよ)

途方に暮れていた時、父方の従姉が勤めている老健が特老も併設することを聞き、即行で申し込んだところ
運良く入所することが出来た。


【終の住処】

父は特養に入所してから、従姉が看護師をしていることもあり、穏やかな表情を見せることが多くなり家に帰りたいとは言わなくなった。

完全介護型の施設で料金さえ払えば特に身内が施設に出向く必要はなく、預けっぱなしにしておいても構わなかったのだが、母は3日に1度くらいのペースで面会に行き、私も目の不調で退職してからは暇だったので、母にくっついて父の顔を見に行っていた。

かなり認知症が進んでいたようで、母も私も名前を忘れられてしまっていた。加えて言うと女性の名前を全て忘れていた。
(私は娘だということさえ認識されませんでした)

入所した翌年の正月三が日、弟の家族が面会に来て父は約半年ぶりに家族に囲まれた時間を過ごした。

弟を指して「おらの息子の〇〇や」と言う父の姿を見て、自分を指差し「じゃあ私は?」と聞くと「誰だか分からん」と返され落胆した。

――ダメか‥‥

(どうやら、父にとって弟は特別だったようです。弟は「親父の周りにいる男が俺しか居ないからだろ」と言ってましたけど‥‥)

久しぶりに皆で笑って、ほのぼのとした時間を過ごし「あの様子だと親父は後1年くらいは生きとるな」弟のその言葉に頷きながら施設を後にした。

しかし、その夜、施設から父の容態が急変したので親族に連絡するようにと電話が入った。日中は元気そうに話していたので、俄には信じられなかった。

――何度も死の淵から舞い戻ってきたお父さんのことだから、今回も大丈夫。きっと、閻魔さんが追い返してくれる。

そう心に言い聞かせながら施設に向かった。


【切ないゴール】

母と私が到着すると、父は口を開けた状態で目を閉じており、苦しそうな様子はなく普通に眠っているように見えた。

ペンライトで父の瞳孔反応を確かめ時計を見た後の医師の言葉は‥‥

「午後○時〇〇分、ご臨終です」

お決まりの文言。

聞きたくなかった‥‥

父、永眠、享年76歳
受け入れたくなかった‥‥

普段から痛さも辛さも口に出さない父。

「何回も痛い目にあって辛かったよね。今までよく頑張ったね。もう頑張らなくても良いんだよ」

父の介護のゴールを迎えた私は、父の頭を抱え込み涙をぼろぼろ落とした。

通夜式の後の夜、弟も母も眠れているようで、母はイビキをかいていた。

――2人共、よく眠れるな‥‥
父のこの姿を見られるのは今夜が最後なのに‥‥

棺の中の父を覗きながら、また私は涙を零した。

葬式の後、火葬炉に棺が入れられた時には、人目も憚らず弟にしがみつき泣き崩れた。

(正直、自分がこんなに涙脆いとは思ってもみませんでしたよ)


人生のうちの三分の一、四半世紀に渡る年月を障害者の身で過ごし、晩年は病との闘いの連続だった父。

担当医師達の誰もから「脳梗塞で倒れ後遺症の残る身で再発もせず、これだけ長く生きていられるのは奇跡に近い」と言われていた父。

家族の誰にも看取られず、眠るような穏やかな顔で生涯を閉じた父。

父が迎えたゴールは幸せだったのだろうか?